今、ちょっと調べていることがあります。
それは我が家のルーツに関すること。
私の祖父の弟が和歌山県某市に住んでいたのですが、そこが我が家の先祖がもともと住んでいた場所だったそうです。祖父は戦前に大阪に出てきて、父をもうけたという話なのですが、では、その前はどうなっているのか?
実は5代前までは私の父が調べていました。今から30年くらい前のアメリカのテレビドラマに「ルーツ」というのがあり、これに影響を受けたのです。
このドラマはアメリカに住む黒人が自分のルーツを調べて遡り、アフリカの先祖の土地へ行く……という話で、その中には当然奴隷売買などのアメリカの暗部も含まれおり、当時は大きな反響を呼んでいました。日本ではこのドラマのために、「自分の先祖がなんだったのか」を調べる人が増えたといいます。
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父はまず戸籍を調べました。死亡して除籍されても戸籍というのは残っています。明治期までは戸籍をさかのぼることで先祖の確認が出来ます。ここで 5代前までは確認できました。五代前のご先祖さまは「重右衛門」と名乗っており、祖父や叔父の名前を調べてみると我が家の通字は「重」だったことがわかりました。通字とは先祖代々受け継ぐ漢字のことです。徳川家なら、「家」、織田家なら、「信」でした。
さて、そのあとだと、菩提寺にある墓石の墓碑を調べたり、寺に残っている過去帳を調べることで、先祖の動静を調べることができます。
菩提寺はわかっていたのですが、寺の過去帳は火事のためありませんでした。墓石は4つ確認できたそうなのですが、古くて墓碑までは読めなかったそうです。
祖父は私が1歳のときに亡くなりましたが、よく「先祖は郷士だった」と言っていたそうです。郷士というのは、城下町に住み、城に上がって働く上級武士ではなく、村に住んでいた武士のことです。
確認できた一番古いご先祖様の戸籍を見てみると、嫡男がなく、娘がいたので婿を取りこれに継がせています。そのときに、ご先祖様は藩の役所から隠居のためお役御免になったというようなことが書かれていたそうです。
和歌山県なら、江戸時代は紀州藩でした。紀州藩には「紀伊続風土記」という書物があります。これは1839年発行で紀州の文化・風土などを詳細に書き記したもので、各村の石高や人口まで調べられていました。そして、その中に各村に住んでいた郷士の名前も書かれているのです。
インターネットでその書物の一部は公開されていたのですが、肝心の先祖が住んでいた村の部分が公開されていませんでした。メールで問い合わせたところ「作業漏れの可能性があるが、さしあたって国立国会図書館本館で閲覧可能」という返事がきたので、昨日出かけて行ったのでした。
会社をさくっと早退し、永田町で降りました。地上に出ると、交差点の四隅に警官が立っています。なんだかピリピリした雰囲気。政局紛糾のおりです。国会図書館は道をはさんで国会議事堂の隣にありますから、日本の中枢と言ってもいいです。だから、歩いているといきなり職質に会いました(笑)
「国立国会図書館へ行きます」と答えると、図書館はあれだよ、と教えてくれました。違う道を歩いてた(汗
もちろん行くのは初めてです。18歳未満は立ち入り禁止。
傘やリュックをあずけます。録音機材やカメラなどの持ち込みは禁止。透明な袋に持ち込むものを入れて中に入ります。
入る前に利用者登録。名前、住所、電話番号、年齢、性別を入れるとカードが発行されます。
自動改札を通るといよいよ図書館の中。天井が高い。すごい大きい。
さて、どうすればいいのかわからないので受付で聞きました。
まず、検索専門の端末があるので、発行したカードをカードリーダーにさして、必要な本を検索。見つかったらそれを閲覧したいと申請します。本が用意できたら端末でも確認できるし、本を受け取るカウンター近くにあるモニターに利用者カードナンバーが表示されるので、それを待ちます。
15分くらいで無事「紀伊続風土記」を借りることができました。分厚い本です。
30分ほどでコピーする場所を選び、今度は複写願いです。
本の管理のため自分でコピーは取れません。図書館員にお願いします。
ここでもまた同じようにしてモニターに自分の番号が出るのを待ちます。
ちなみに私のいたフロアは携帯が圏外になっていました。
無事、複写完了、もう少し手間取るかと思ってましたが、意外に早く終わりました。
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結論から言うと、編集のために調査された1808年当時のご先祖さまの村には私の苗字を名乗る郷士は住んでいませんでした。まあ、これだけではなんとも言えないですけれど。
・武士ではなく漁民、あるいは農民だった
・別の村に住んでいた
・当時は漁民か農民だったが、その後郷士に取り立てられた
調査は1808年当時のもの。黒船来航が1853年、明治維新が1867年ですから、戸籍が残っている代よりも2〜3世代は遡ったころということになります。もしかしたら、後に取り立てられたのかもしれません。藩の役所に勤めていたということはすなわち、武士身分ということでしょうから。
さて、苗字と地名というのは密接なつながりがありますが、私の苗字はその先祖の地とはまったく違う名称です。しかし、歴史的なことをいろいろと調べてみると、南北朝時代に私の苗字を持った武将が大阪の某所(ここは苗字と同じ土地名)から派遣され、50年ほどこの先祖の地を統治していた、という事実が出てきました。南北朝争乱のころなので一族での移動でしょうし、それから50年統治していたのなら、子供も出来、孫の代です。その後の戦いで敗北し直系は大和へ逃げた、となっていますが、一族全員が逃げたとも思えません。少なくとも傍系の何人かは残っていたと思います。南北朝のあとの室町時代は、一応畠山氏が守護でしたがその力は弱く、各地方の土豪が統治している群雄割拠だったようです。その後、秀吉の弟、羽柴秀長が紀州を攻略し、紀伊を統一。その死後は浅野家が、浅野家が広島へ国替えになったあとに、家康の10男になる頼宜が入り、紀州藩が成立したというのが大きな歴史の流れ。
さて、その、私の苗字と同じ名の武将ですが、南北朝時代の武将ということで系図が出てきました。その系図を見て驚きました。その武将から数代遡ったところで家が二つに分かれているのですが、もう一方を見てみると誰でも知っている武将の名前が。
楠木正成。
これはとんでもないところにつながってしまいました。
しかし。それだと南北朝時代に派遣されたという話もうなづけます。
さらにそこから昔へも遡れます。本当かどうかわかりませんが、熊野国司の家にまで達しました。古代に和歌山県南部にあった熊野国を統治していた家です。ここから先はもう古事記の世界。先祖は「饒速日命」(ニギハヤヒノミコト)で行き止まりました。ここまでくると嘘だと思いますが、まあ、家系図の最初はそんなものです(笑)
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問題はこの結果をどうまとめるか。
一応、父親には再調査していることは言ってあるのですが、あまりにも長いし膨大なのでまとめかたに悩んでおります。