2011.02.13 Sunday
21:01 | posted by
kazuto funahashi
ふと思って調べてみました。どうして2月だけ28日なのかも。
紀元前753年、古代ローマで採用された暦が出発点です。
農耕のための暦だったため、現在の3月から始まり、12月で終わる暦で、12月30日から3月1日の間に、月の名前のない61日があったとされます。
このときの各月の日数は以下の通り。
3月(Martius) 31日
4月(Aprillis) 30日
5月(Maius) 31日
6月(Junius) 30日
7月(Quintilis) 31日
8月(Sextilis) 30日
9月(September) 30日
10月(October) 31日
11月(November) 30日
12月(December) 30日
紀元前713年に、ローマ国王によって、1月と2月が付け加えられました。と、同時に30日だった月をすべて29日にしました。
3月(Martius) 31日
4月(Aprillis) 29日
5月(Maius) 31日
6月(Junius) 29日
7月(Quintilis) 31日
8月(Sextilis) 29日
9月(September) 29日
10月(October) 31日
11月(November) 29日
12月(December) 29日
1月(Januarius) 29日
2月(Februarius) 28日
これだと一年が355日となるので、2年に一度、2月を23日にし、2月の次にMercedinusと呼ばれる27日もしくは28日の閏月を入れることで調整することになりました。
紀元前153年からは一年の始まりが3月から1月に変更されました。
しかし、閏日を入れる・入れないはしばしば政治的な考えで決められたため、やがて季節と日付がまったくずれてしまうようになってしまいました。最終的になんと3か月もずれてしまったのです。そこでユリウス・カエサルが紀元前45年から「ユリウス暦」と呼ばれる太陽暦を施行しました。
当初のユリウス暦によると、
1月 31日
2月 30日
3月 31日
4月 30日
5月 31日
6月 30日
7月 31日
8月 30日
9月 31日
10月 30日
11月 31日
12月 30日
また、7月はカエサルの誕生月だったので、QuintilisからJuliusと呼ばれるようになりました。
この暦は4年に一度2月に閏日を入れることになっていましたが、誤って3年に一度に入れてしまったためズレが生じてしまいました。
そこで、皇帝アウグストゥスは紀元前8年から西暦8年まで、閏日挿入をやめ、西暦8年から以下のように各月の日数を変更しました。
1月 31日
2月 28日
3月 31日
4月 30日
5月 31日
6月 30日
7月 31日
8月 31日
9月 30日
10月 31日
11月 30日
12月 31日
8月が30日から31日になったのは皇帝アウグストゥスの生まれ月であり、「大の月」にしたかったためと言われています。また、8月は皇帝の名前をとってSextilisからAugustusと変更されました。そのため日数の帳尻をあわせるために、もともと一年の終わりだった2月から削られ28日になったということです。
しかし、この説も間違いだという話もあり、実は正しいことがまだわかっていないとのこと。紀元前12年には2月はすでに28日だったという証拠もあるそうです。
とはいえ、2000年前、西暦が始まるあたりから、1年の月の数とそれぞれの日数は今と同じになっていました。この暦は「ユリウス暦」と呼ばれ、西欧諸国では1600年近く使われました。ロシアでは共産主義革命以前まで使われていました。
現在、日本でも使われているのは「グレゴリオ暦」と呼ばれるものです。
「ユリウス暦」との違いは、閏日の入れ方。
双方とも4年に一度、4で割り切れる年は2月を1日増やす、というのは同じなのですが、これだと、1年の平均が365.25日となり、1000年で8日のズレが生じます。ユリウス暦が施行されて1600年以上経っていた当時、重要な宗教行事であるイースターの日付を確定させることも困難になってきていたため、時のローマ法王グレゴリウス13世が、学者たちにその対応を検討させたのです。
その結果、
100で割り切れてかつ400では割り切れない年は閏年としない
というルールを入れて調整することになりました。
こうすることにより、3300年で1日ズレ、というところまで精密になったとのこと。
西暦2000年は100で割り切れるが、400でも割り切れるため閏年になりました。
しかし、西暦2100年は400で割り切れないため、閏年にはならないとのこと。
つまり、こういうルールです。
1.西暦年が4で割り切れる年は閏年
2.ただし、西暦年が100で割り切れる年は平年
3.ただし、西暦年が400で割り切れる年は閏年
こう見ると西暦2000年は相当珍しい年だったようです。
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日本ではずっと太陰太陽暦、いわゆる旧暦が使われていましたが、明治維新のあと、明治5年(1872年)の旧暦11月9日に「来月(つまり12月)の3日を新年の1日とする」という布告を出しました。いきなりの告知だったためかなりの混乱を起こしたのですが、これを決行したのは時の政府に金がなかったからだということです。
つまり、この措置により、明治5年の12月は2日しかなくなり、給料を払わなくて済む。旧暦のままだと明治6年は閏月のある年にあたり、1年が13か月になるため、太陽暦に移行することによって給料を12回払うだけで済ませる、という狙いがあったそうです。
また当時は末尾が1と6がつく日は休み、という風習で、さらに節句などを加えると1年のうち40%近くが休みになっていました。そこで太陽暦に改め、さらに日曜日を休日とすることにより、休みの日を大幅に減らすことにしたということだそうです。
ところがこのとき、布告に上記の規定(100で割り切れてかつ400では割り切れない年は閏年としない)が含まれていませんでした。
そこで1898年に改めて、勅令が出されました。
神武天皇即位紀元年數ノ四ヲ以テ整除シ得ヘキ年ヲ閏年トス但シ紀元年數ヨリ六百六十ヲ減シテ百ヲ以テ整除シ得ヘキモノノ中更ニ四ヲ以テ商ヲ整除シ得サル年ハ平年トス
つまり、皇紀年数(紀元前660年、神武天皇が即位したという神話に基づく年数)が4で割れたらうるう年。
ただし、皇紀年数から660を差し引いて(つまりこれで西暦と同じになる)、100で割り切れる場合のうち、その答えを4で割り切れない場合は平年とする。
ということで、改めてこういう告知をしたのは1年半後に、まさにこの告知に該当する西暦1900年が近づいてきていたからでした。1900年は4で割り切れ、100で割り切れますが、400では割り切れません。つまりこの年は平年だったのです。
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