大正12(1923年)年9月1日に起きた、関東大震災。
当時は観測機器がまだまだよくなく、改めて調べなおした結果、震源の位置が従来と変わってきているそうです
従来言われていたのは北緯35.1度、東経139.5度。地図でいうとこちら。
ところが最近は北緯35.2度、東経139.2度のこちらと言われています。
別の説では小田原市の直下、つまり内陸で起きたというのもあるのですが、この地震は津波が起こっているので、海で起こらないと理屈が合いません。
昨年の東日本大震災を引き起こした地震は3つの地震が連動した地震だということがわかっていますが、この大正関東地震も3つの地震が連動して起こったことがわかっています。本震(M7.9)は11時58分、余震がその3分後(7.3、東京湾北部)と5分後(7.2、山梨県東部)に起きたため、強い揺れが5分以上続いて大惨事になりました。
津波は相模湾と房総半島を襲い、房総で9メートル、熱海で12メートルに達したそうです。
従来は関東大震災は昼時のために火を使っている家庭が多く、東京では火災が多数発生した面が強調されていましたが、震源の位置からもわかるとおり、最大の被害は神奈川県でした。小田原は震度7で壊滅、相模湾一帯は津波に襲われ鎌倉や吉浜(湯河原)で8メートル、熱海では12メートルに達しました。
湘南一帯は避暑地として開発されはじめており、多数の皇族が滞在していたため、3人の皇族までもがなくなっています。(6歳の男児と17歳と20歳の女性、いずれも倒壊した建物によっての圧死)
埋立地に作られた横浜は文字通り壊滅しました。
現在、横浜にある山下公園は、この地震で発生したがれきで埋め立てられて作られた土地です。
さて、じゃあ私が今住んでいる横浜北部はどうだったのでしょうか。
当時はこのあたりは横浜市ではありませんでした。
南武線(4年後開業)、小田急線(4年後開業)、東急田園都市線(43年後開業)はまだ開通しておらず、かろうじて横浜線が15年前に開通していました。
横浜線が先行して開通していたのは、当時の主力輸出品だった絹を、その主生産地だった八王子から、港の横浜に運ぶ必要があったからです。街に出るときは大山街道を2-3時間かけて歩き、長津田まで出ていたそうです。
このあたりは山深い山村、といった感じで、丘陵地から流れ出す川が削った、わずかな平地(これを谷戸という)を使っての米作で暮らしを立てていました。丘陵地なので地盤自体はしっかりしています。関東地震のときの推定震度は6弱。昨年の地震のときは5強だったので、去年の地震よりもデカイのは間違いないんですけどね……。
ちなみに6弱はこんな感じ。
■人間
立っていることが困難になる。
■屋内の状況
固定していない重い家具の多くが移動、転倒する。
開かなくなるドアが多い。
■屋外の状況
かなりの建物で、壁のタイルや窓ガラスが破損、落下する。
■木造建物
耐震性の低い住宅では、倒壊するものがある。
耐震性の高い住宅でも、壁や柱が破損するものがある。
■鉄筋・コンクリート・造建物
耐震性の低い建物では、壁や柱が破壊するものがある。
耐震性の高い建物でも壁、梁(はり)、
柱などに大きな亀裂が生じるものがある。
■ライフライン
家庭などにガスを供給するための導管、主要な水道管に被害が発生する。
一部の地域でガス、水道の供給が停止し、停電することもある。
■地盤・斜面
地割れや山崩れなどが発生することがある。
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今日は寒いので引きこもり…と思いましたが、牛乳が品切れしており、また、以前に買い込んだカップ麺の賞味期限がそろそろやばくなってきたため、新しいのと入れ替えのために私だけ買いに行きました。もう3月で、F1だって始まるのにまだまだ寒い。
今年の冬は本当に寒い。