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その後の慶喜―大正まで生きた将軍

徳川慶喜と言えば徳川幕府最後の将軍として誰でも知っている人なんだけど、ほとんどの人はこの人が大正時代まで生きていたことを知らないだろう。
彼の存在は前半生でのみ語られることが多かったけれど、それでは後半生はどのような暮らしをしていたか、という話。

結論から言うと静岡に30年蟄居していた。

になってしまう。政治向きの発言は一切せず。ひたすら趣味に没頭して生きていた。
頭のいい多趣味なところは変わらず、狩猟、写真、囲碁、将棋などをして暮らしていたとか。かつての部下であり当時は政府の役人になっていた勝海舟が後見人と監視人をかねており、そこそこの礼遇をもってくらしていたとのこと。

しかし、30年の蟄居ののち東京に出てきた。これは子供達が就学年齢に達し学習院に通学しなければならなくなったためだ。当時、華族の子弟は学習院に入れることが法律で義務づけられていた。そのために身辺は寂しくなる。適齢期を迎えた娘は嫁ぐ。
むろん、本人の老化もあって宗家(第16代 徳川家達。田安家から宗家を継いで、貴族院議長にまで上り詰める)とのやりとりもつらくなる……とのことで転居した模様。

それからもう一つ。
慶喜が公爵に叙せられたことも大きい。つまり名誉回復されたということ。
階位も徐々に挙げられて将軍だったときに正二位に復帰。
社交界にも体力の及ぶ範囲で復帰した。

これは秩禄処分の結果不平がたまっていた旧武士層へのなだめと、政府の寛容なところを見せるという面もあるけれど、維新から30年もたちようやく彼の果たした役割が正しく評価されたことに由来する。

従来は「幕府をつぶした将軍」としてのイメージで、大坂から軍艦に乗って逃げた「卑怯者」というレッテルが貼られていたのだが、「内戦に西洋諸国が介入してきたら、日本は植民地化してしまう。それだけは避けなければならない」という考えのもと、事前に知っていた「王政復古のクーデター」を黙認し政権を朝廷に返したことで、最小限の混乱で新体制に移行でき、近代化への道を進むことができるようになったとの評価が生まれたことによる。

都内では巣鴨に屋敷をかまえた慶喜はまだ当時珍しかった自転車に乗って銀座まで行ってたりしたそうだ。新しモノ好きは年を取っても衰えず、最後に手に入れたのは自動車だったという。
当時、まだ日本には150台しか車がなかったそうな。
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