【龍馬伝】上士と下士の由来

2010.01.05 Tuesday 14:02
kazuto funahashi


大河ドラマが始まりました。福山はなかなかいいんじゃないかしらん。

土佐藩では武士身分にも「上士」と「下士」という厳然とした身分の違いがありました。そのお話がつづられていましたね。幕末で活躍した土佐の人たちはすべて「下士」でした。

もともと、この違いは関が原の戦いの報酬とし、て山内一豊が土佐20万石を徳川家康から与えられたことによります。

もっとも、戦いのときは一豊は後方にいてほとんど戦をしていません。にもかかわらず掛川5万石から一気に土佐一国を与えられたのは、家康が挙兵した三成を撃ちにいくときに、その道中にある自分の領国と城、さらには兵糧まですべて差し出すと言ったことです。この発言にそのほかの秀吉恩顧の大名たちもならい、上杉討伐の途中にあった東軍の軍勢はほとんど脱落者を出さずに関が原へ行くことができたからです。(このときに脱落したのが真田幸村)

さて、5万石から一気に4倍になったので家臣をふやさないと統治ができません。普通はその土地の地侍などを家臣に加えるのですが、一豊は大阪や京都の地で家臣を探し連れて行きました。これが「上士」となります。

もちろん土佐にも地侍はいたのですが、彼らはもともとの主である長宗我部元親に非常な愛着を持ち、よそものの山内一豊に対して反乱を起こしたりしていました。これら地侍が「下士」となります。数年前の大河ドラマの最期のほうに描写されていたりしましたが、桂浜で相撲大会をやると地侍たちを集めて鉄砲で虐殺したりしています。
こんなわけで土佐藩にだけこういう侍の身分差があったのです。

ちなみに前の主、長宗我部氏は関が原の戦いで西軍についたために戦いのあと改易されたのですが、もともとは東軍に味方したかったそうです。しかし、土佐から使いを出すには西軍が押さえている領地を通っていかねばならず、その家康への使いがたどりつく前に戦いが始まってしまい、西軍のほうへつかざるをえなくなってしまいました。
そう考えると可愛そうな人ではあります。

彼は改易のあと京都で塾をひらいて生計を立てていましたが、大阪の陣のときに入城して再び敗れ、今度は斬首の刑となりました。

以上、ワンポイント講座でした。


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